Nakamine's Lab.








 学校儀礼について③

 学校儀礼を具体的に考える。


1908年3月に挙行されたある小学校の卒業式風景――「中央の人たちは信じないかも知れない……古風な装束をした一人の婦人が我子〔実は孫〕が證書を手に握つた刹那に、感極まつて、美しい聲で謡ひながら、踊出したのを見て、びつくりした。しかも外の來賓たちが、驚きもしないで、當り前のことだといはんばかりの顔付をして、すまし込んでゐるのを見せつけられて、なほさら奇異の感に打たれた」(伊波1926:255)。


『学校日誌』から学校儀礼を探る

このページでは、西日本のA小学校に残された明治時代以来の『学校日誌』の記述を解読し、かつての日本の学校儀礼がどのようなものだったのかを考えたい(詳しくは仲嶺2011を参照いただきたい)。先に「学校儀礼について①」で小学校祝日大祭日儀式規程(文部省1891:以下儀式規程と略記)について批判的検討を加えてきたが、それは学校現場でどのような受けとめられ方がなされたのか、という点には言及できなかった。続く「学校儀礼について②」でも、B.バーンスティン氏の分析にふれつつ、現代において開かれた学校儀礼のタイプが求められているという指摘に賛同したが、理論研究であるためかやや抽象度が高く、なおかつ彼の芳醇な理論に対し部分的な引用とわずかな言及をおこなうにとどまった。

ここでは、学校儀礼、特にその盛大な特徴を備える卒業式に限定し、より具体的な姿を掘り起こしていくことにしよう。というのも、効果的な学校儀礼の挙行と秩序形成の実務的遂行はまさにその学校内部で積み重ねられたものである、という基本的な事実が示すところが重要だからである。『学校日誌』に記された学校儀礼の数々はその内部情報の一つであり、(1)その学校に秩序が与えられる過程が記述されたものとして、(2)またその時代に特有の学校秩序が記述されたものとして、それぞれ解読されうるものである。

以下『学校日誌』からの引用は年月日で示し、カタカナをひらがなに改め、口語体になおした。また、固有名詞には「某」の字をあてた。


儀式規定以前の学校儀礼を焦点化し、後の時代と対照する

儀式規程が学校現場に与えた影響を考えるとき、重要なのはそれ以前の学校儀礼がどのようなものだったのか(ここでは初期段階と呼ぶ)、ということと対比することである。

初期段階『学校日誌』の記述で特徴的だったのは、箇条書きの式次ではなく、学校儀礼の進行過程に沿った改行処理の少ない状況描写的な性格をもつ記述である。初期段階の学校儀礼に関する記述は、このように目にしたり耳にしたりしたことをありのままに記そうとする観察型の記述が常だった。この記述様式は、現代の我々からすると、以下にみるようにかえって儀礼進行の様子がつかみづらい面もある。しかし状況描写記述は、社会全体に学校的な型にはまった儀礼経験が少なかったために、(1)学校文書として広い了解が得られる形が選ばれた結果とられたスタイルであること、(2)その時代は一つひとつの儀礼が多様なものであるという感覚が存在したこと、をそれぞれ示している。



 学校儀礼の記述様式の変化。


学校儀礼の初期段階とその後


以下、類型的に『学校日誌』の記述をみていこう(原史料中の改行箇所はで示した)。




〔1〕状況描写

本日の午前、講堂において卒業証書授与式をおこなった。その概況は次の通りである。卒業生を前面に整列させ、進級生徒をその後ろに整列させた。最初に勧学の合奏により式を始め、続いて進級生徒に証書を授与した。その後やまとなでしこ及び蛍の光を奏し、卒業証書を授与した。これにて式は終わった。
卒業生は慣例により写真撮影のため某所の門前に到着した。
この日は都合により郡役所からの来賓の臨席はなく、役場からは某用掛り氏が管理戸長の代理として臨席した。
式場では某訓導及び生徒代表某が祝辞を朗読し、某校長と某用掛り氏、某某両訓導の演説などがあった。

(1889年3月18日)



〔2〕式次の箇条書き

卒業証書と修業証書授与式をおこなう。
午前8時30分より尋常4年以下は講堂に集合。
君が代、教育勅語奉読、勅語奉答、修業証書、次に賞状や皆勤・精勤賞授与、校長から誨告、次に参列者から、9時30分に終了。
午前10時10分から尋常5年以上は講堂に集合。
唱歌君が代
勅語奉読
勅語奉答
卒業証書授与、尋常男子91人、女子91人、高等男子52人、女子22人

一、善行証授与
一、賞状授与
一、褒状授与
一、皆勤賞授与、8カ年、6カ年、2カ年、1カ年
一、精勤賞授与、8年、6年、2年、1年
一、某町長寄贈品授与、賞状を12人へ、善行のもの1人へ、8年・6年皆勤者各1人
一、某氏寄贈品授与、尋常卒業生2人、高等2人、高等卒業生3人
一、級長副級長謝状
一、組長副組長謝状
一、学校長誨告
一、某町長訓辞
一、某中学校長式辞
一、仰げば尊し、卒業生
一、蛍の光、高等1年生と尋常5年生
一、終式

修業証書授与、尋常5年と高等1年
一、修業証書授与、賞状、褒状、皆勤・精勤賞授与、誨告

本日参列者
町長、某郡長、某裁判所某、判事某、某某中学校長、区長、町会議員など29人

(1915年3月26日)



〔3〕簡素化

午前9時より卒業式
同 11時終了
引き続き奉告祭
引き続き某賞記念撮影
午後1時半より茶話会
午後〔記入漏れの空白〕時青年学校卒業式

(1936年3月26日)


弱い分類・枠づけのもとにあった学校儀礼


分類と枠づけの値は儀式規程以後劇的に変化した。まず初期段階の様子をみてみよう。〔1〕状況描写型の記述において最も重視されたのは、習得主義(半年に1回の試験により合格・不合格の結果が出され、進級や卒業の要件とする運用/全員が進級・卒業するのが大勢となる履修主義に対立する)である。従って、式場は証書授与者・被授与者が対面的な配置をとり、証書受け渡しの行為が際だつように設定されている。この時期、落第や試験欠席により進級・卒業できなかった者が少なからず存在していたため、一定の学力を備えた証としての証書は高い意義を持つものだった。ただ、このような厳しい措置をとっていた反面、初期段階の学校儀礼は分類の弱い側面もあった。例えば証書を獲得した事実が何より重視されていた当時、「第一番学区」に属する他校生徒もA小学校の同じ会場で証書が授与(1886年5月12日)される場面もみられた。また、校長以外の4人の者が演説をなすキャストの多様さは初期段階に特有のものであり、格上教員の権威性・別格性が弱かった。初期段階学校儀礼は、その要素と順序について厳格な定まりがなく、ルーティンも未確立であったため、集合から退散までの間につけられた区切りというものが弱かったことを思わせる。例えば〔1〕では郡役所からは代理すら臨席がないおおらかさとともに、式のはじめや卒業式に移行する際に音楽をはさむなだらかさがある。そして最後のパラグラフでは儀礼の時間的な順序に沿わない文脈が挿入(朗読や演説など、振り返ってみて特筆すべき事柄が想起され、後になってそれが加筆されていることを意味する)されている点も見逃せない。これらのことは、儀礼が多様な性格を持つものであるとする感覚が執筆者の中にあったことを思わせる。そしてこれは儀式規程以後の「直立不動の姿勢」(1891年3月22日他)から最敬礼をもって区切りをつけ、儀礼の要素間を強く分離するやり方とかなり異なるものである。



分類・枠づけの強まり、その「当たり前」化

続いて儀式規程制定から20年あまり経た段階にあたる〔2〕式次の箇条書きの方をみてみよう。表彰の項目がかなり多いが、それを除けば今日のわれわれにとってなじみのある展開になっていると思う。初期段階と比べてまず目につくのが、儀礼の要素が順序よく厳格に定まっており、頻繁な改行処理がおこなわれるという記述上の変化である。〔1〕状況描写では改行処理は4回にとどまる。これに対し〔2〕では卒業式の部分だけで21回の改行処理がおこなわれている。一つひとつの局面が明確に区別され、また式場臨席者の地位と役割が明白に分離されている様子もうかがえる。例えば教室の日常を知る某訓導ら一般の教師たちは本来卒業式で具体的なエピソードを述べる上での適格者といえるが、合奏・合唱指導のような脇役の姿でしか登場しなくなる(1907年3月26日)。某訓導らの登壇の機会は退けられ、教育勅語を「恭く朗読」(1891年3月22日他)する局面や校長・要人による訓辞の別格性を弱める要素が避けられるようになったともいえる。ここにおいて、学校儀礼が権威あるものだけに自説を述べることが許される厳格性が確立していることがわかる。

儀式規程と各府県での式次第制定以後、学校儀礼はただちにこのスタイルに移行し、ほどなくこれが「当たり前」のものとなった。何より「儀式規程」による変化を経験した者は歴史的全体としてはほんの一部に限られることになるので、初期段階にみられた儀式の多様さや固有性が後退するのにそう時間を要するものではなかった。もう誰が・何を・どういう順序でおこなうのか、ということは動かしがたいものとして定着していく。

さらに儀式規程の制定から40年以上の歳月を経た段階にあたる〔3〕簡素化をみると、『学校日誌』にはもう式次すら記述されなくなり、開始時間・終了時間のみが示される形をとるようになる。『学校日誌』では、「別冊の通」(1903年3月26日)「挙式の次第内規に拠る」(1906年3月26日)「プログラム通り進行」(1927年3月20日)などと式次が省略され、学校儀礼がどのように展開されたのかが不明瞭になっていく。〔3〕で青年学校卒業式の開始時間に記入漏れの空白があることは、卒業式挙行に先立ちあらかじめ記事が執筆されていたことをうかがわせる。それほどまでに学校儀礼は「当たり前」の形式を備えるに至っているわけである。



 このページのまとめ


分類と枠づけを強める学校儀礼の挙行が突然求められたことに対し、A小学校側はどのような対応をとったのであろうか。儀式規程以後、卒業式では教育勅語朗読がなされるようになる。ただ、儀式規程以前の弱い分類・弱い枠づけの学校儀礼に教育勅語が組み込まれるにあたり、若干の試行錯誤がみられたのは注目すべきことである。

というのも、教育勅語渙発の影響が及んだ最初の卒業式(1891年3月22日)では、卒業式が終わってから勅語朗読、君が代「合奏」(唱歌指導の準備が間に合わなかったのだろう)、「万歳」、「礼」がおこなわれており、明らかに組み込みが不完全である。その翌年度も勅語朗読がつけ足される形は同じだが、「楽音により一同神床に向て最敬礼」と君が代「合唱」という点に変化がみられる(1892年3月14日)。さらにその翌年度は早くも式次第の項目だけを記す箇条書きの一歩手前の段階まで達しており(1893年3月27日、ただし改行処理はまだない)、以後少なくとも記述上は厳かさが当たり前のものとなる。これに先立つ1892年3月29日にはこの地域で「小学校祝日大祭日の儀式に関する次第」が定められていた。

これらの経緯をみると、儀式規程という制度がいかに初期段階の自生的学校儀礼と隔たりがあったか、その受容にあたり大きな違和を抱えるものであったか、ということを感じさせるものである。



追記


参考まで、以下は「教育勅語+声明」でGoogle検索した結果から得られた声明・談話などの情報である。教育現場での教育勅語容認論に対する教育界の抵抗がきわめて大きいことを示すものである。




 参考文献

  • バーンスティン.B(1996=2011)〔久冨善之・長谷川裕・山崎鎮親・小玉重夫・小澤浩明訳〕『〈教育〉の社会学理論──象徴統制,〈教育〉の言説,アイデンティティ』法政大学出版局、新装版。
  • 伊波普猷(1926)『孤島苦の琉球史』春陽堂(『伊波普猷全集』第2巻に収録)。
  • 仲嶺政光(2011)「学校儀式の「通観」的分析──豊岡小『学校日誌』を素材として」『富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報』第13巻。


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2019年11月09日 記