Nakamine's Lab.








 学校儀礼について②

 学校儀礼を理論的に考える。


ぶん‐るい【分類】

①種類によって分けること。類別。「昆虫を—する」
②〔論〕(classification)物事の区分を徹底的に行い、事物またはその認識を整頓し、体系づけること。彙類。
出典:『広辞苑』第七版より


儀礼とは、一般に、ある状況に特有な固定的な行為の様式を指し、その状況依存の特有の意味を超えた、意味の枠組みを構成するものである。ここで、儀礼の象徴的機能というのは、儀礼行為をとおして個人を社会秩序に関係づけることであり、社会秩序を尊重する気持ちを強め、個人の内面にその社会秩序をよみがえらせ、とりわけ社会秩序に対するアンビバレンスをコントロールするとともに、連続性とか秩序とか他の集団との境界を維持する手続きの受容を深化することである……〔学校儀礼は〕それを伝達する社会秩序や価値について疑問をさしはさむことを妨げるよう機能するものでもある。


出典:バーンスティン訳書1977=1985:65,69

分類は権力を運ぶ

分類は、学校儀礼を考える上で示唆的な概念である。分類概念は、教育言説、教育知識、教育時空間、各種物理的事物、人間関係のあり方などの諸カテゴリーを類型的に把握する上で有用性を発揮するものといえる。以下、B.バーンスティン氏の提唱した分類概念を参照していこう(以下引用はバーンスティン訳書1996=2011に基づく)。「AがAでありえるのは、A自身がBから効果的に疎隔できる場合のみなのである……疎隔を維持するのは権力である」(pp.42-43)。すなわちAというカテゴリーの存在意義は、A自身の力でではなく、Bという異なるカテゴリーとの隔たりがあることによって確保される、そしてその隔たりは権力によって維持される、ということである。また、分類には程度の差があって、類型的には強い分類/弱い分類という区別ができる。「強い分類の場合では、事物は分離していなければならない……弱い分類の場合では事物は集まっていなければならない」(p.50)。

分類が強いほど、それぞれのカテゴリーは「それ独自のアイデンティティや独自のボイス〔そのカテゴリーの内的な秩序をさす〕、独自に特化された内部関係のルールを持つ」──即ち自律性が高いものとなる。従って分類が弱い(AとBの違いがはっきりしない)場合は存在意義すなわちアイデンティティの危機をもたらすことになる(pp.42-43)。

分類概念の重要と思われるところは次のくだりである。すなわち「強かろうが弱かろうが、分類はつねに権力関係を運ぶ」(p.43)。確かに、程度の差はあれ、あるものと他のものが違う・異質である、という判断や考え方を伝達することは、教師の側に権力が掌握されている事実を象徴するものであろう。分類は、このように教師・生徒、生徒どうしの人間関係のあり方を決定づけるものであり、また一人ひとりの内面にも投影されるものでもある(pp.43-44)。そうした〈教育〉実践場面での区分けの仕方は恣意的(色々とありうる可能性の中のただ一つが選択されている)なものであるが、「分類原理において必然的に存在する矛盾や分裂やジレンマ」が疎隔によって抑えられ、その区分けが自然な流れとして認識される(p.44)。

先に「学校儀礼について①」でみたような、日本において儀式規定以後戦前までにかけて運用された厳格な儀式は強い分類に基づくものと考えてよいだろう。そこでは、学校的な日常の時間と儀礼の時間とが明白に区別されている。また、子どもと教師、校長、皇室文化はそれぞれ地位や役割が厳格に分け隔てられている。その儀礼を通じて権力関係もまた明白化されて伝わるわけである。


枠づけはコミュニケーションを統制する

枠づけは、上記の分類と対となって、〈教育〉実践の内部面を分析するための視野を提供する概念である。「分類は何を(what)に関連し、枠づけはさまざまな意味がまとめられる際のいかに(how)に」関連する(p.52)。例えば、数学は何を教える/教えない教科であるのか、すなわち他の教科との隔たりの程度を考えるのが分類であり、数学を一つのまとまったカテゴリーとしてこれをどのように教えるか、ということは枠づけに関連する。分類が〈教育〉実践の外側から形を整えようとする動きを分析するものであるのに対し、枠づけは〈教育〉実践の内側を観察しようとするものである。

枠づけの諸局面(p.52)についてみると、コミュニケーション=伝達すべき内容の選択(御真影への最敬礼や教育勅語の朗読など儀式の諸要素を定め、大がかりな式場を設定すること)、その順序(何が最初に来て、次に何が来るか:これは儀式規定とその次第で細かく定められている)、そのペース配分(教育勅語の理解度や訓話の難易度、及び唱歌斉唱の要求水準など)、評価基準(全体として厳粛な進行が実現できたか)、などに関連するものであるとされる。

分類と同様、枠づけもまた強い/弱いという類型をとるものである。枠づけが強い場合はこれらの諸局面が国家や学校側によって決定され、弱い場合は(あくまで見かけ上ではあるが)子どもが創造主体であることを前面に押し出すことになる(p.52)。

一方、バーンスティン氏は枠づけのあり方は分類の値を変化させる可能性がある、とも指摘している。枠づけを子ども主体の形に変化させること、すなわち枠づけを弱めることは、「分類を破壊する方向へ向かう。だから変化が生じる可能性は枠づけのレベルにある」(p.56)。

バーンスティン氏の理論に従えば、日本の学校儀式は枠づけも相当に強いものだったといえそうだ。儀式の内容、順序、ペース、評価は子どもの側にはほとんどタッチする余地がないからである。もっとも、こういう硬質なタイプの儀式が今の時代に合っているか、という問題は残るだろう。



 学校儀礼の2つのタイプ。


閉じられたタイプから開かれたタイプへの転換は可能か


バーンスティン氏によれば、「成層化された学校」と「差異内包的な学校」という2つの学校タイプがあること、そして前者から後者へと移行することで「表出的秩序が伝達されるあり方の変化を伴っている」と論じている(p.166およびバーンスティン訳書1977=1985:72-76参照)。成層化された学校においては、「明確な水平的および垂直的構造を発達させるだろうと考えられる。このことは、境界の儀礼化と全体を統一する式典のための曖昧でない基礎を提供するだろう」(pp.167-168)。他方、差異内包的な学校では「表出的秩序は、社会的組織が儀礼化のためのより弱い根拠しか提供しないため、広範囲で集中的な儀礼化によっては中継されにくくなっている」(p.168)。

つまり成層化された学校においては明確に構造化され、境界化や統一化のような表出的秩序の形成を促すような学校儀礼が存在する。これに対し差異内包的な学校では多様な性格が強いために学校儀礼によって表出的秩序の伝達は容易ではなくなる、ということである。バーンスティン氏はこの2つの学校類型について以下のような図示をおこなっている(これはすでにバーンスティン訳書1971=1981:249,同1977=1985:64でも示されていたものである)。



図 学校の経験的研究のための記述の原理

(バーンスティン訳書1996=2011:167より転載)


Figure: Principles of description for empirical study of schools

(Bernstein1996:98より転載)



この図の下段(秩序:表出的)をみると、学校儀礼のきわめて対照的な姿が描かれている。右欄、閉じられたタイプではヒエラルキー/支配が称揚され、外部との境界は明確で、高い能力を持つものが狭い範囲で存在し、教師の統制下にあり(広く権力が行使される)、自治の機会は限定される。教師と生徒の権威関係をみると賞罰は公表・儀礼化され、両者は地位的な関係で結ばれる。他方、左欄、開かれたタイプでは参加/協同が称揚され、外部との境界はあいまいで、多様な能力を持つ者たちが能動的に参加し、教師から独立的で(権力行使は限定される)、自治的な機会がある。教師と生徒の権威関係をみると賞罰は公表・儀礼化されず、両者は間人格的な関係で結ばれる。

先にみた成層化された学校は閉じられたタイプ、差異内包的な学校は開かれたタイプに対応する、と考えてもよいだろう。前者から後者への転換は「常に表出的秩序の変化をふくむものではないが、それが伝達される手段の変化をふくむことは明らかである」とされる。つまり学校儀礼のあり方が両者の間でかなり異なったものになってくるということである。成層化された学校における表出的秩序の伝達は「高度に濃縮された肥沃なコミュニケーション体系〔儀礼〕をとおして伝達される〔官僚制的〕。個性化された学校の表出的秩序は……〔儀礼ではなく〕より個性化されたコミュニケーション体系をとおして伝達される傾向がある〔個人的治療型〕」(バーンスティン訳書1977=1985:72-75)。

歴史的な推移のなかにこの学校2類型を置き直してみると、バーンスティン氏は前者から後者へと漸次移行する必要があることを想定しているようにみえる。ただ、残念ながら日本の学校儀礼はそのような徴候がきわめて微弱であるように思われる。



秩序を2つの種類に分ける考え方。知識・技術の伝達を統制するのが道具的秩序(授業の場面など)、信念や道徳の伝達を統制するのが表出的秩序(儀式の場面など)である。

 このページのまとめ


時代は明らかに成層化された学校から差異内包的な学校へと移行している。これに合わせて学校儀礼もまた変化の兆しを見せている。例えば、日本の堅苦しい儀式によっては伝達されにくくなった表出的秩序に対し、新しい動きがある。すなわち、厳かな卒業証書授与式とは別に「卒業生を送る会」を別に設けるケースが生みだされるなど、強すぎる分類と枠づけを組みかえた形の取り組みがみられるようになったのである(牧野2008)。

バーンスティン氏は早い段階で次のように述べている。


学校の表出的秩序の儀礼化の社会的基盤はきわめて弱いものとなっていき、儀礼がただの社会的ルーティーンとしての特徴をもつようになるであろうことは、ありうる。われわれは、また、大人によって課され規制される儀礼が優位をしめる現状から、若者によって創られ規制される儀礼への転換を期待したいと思う。


出典:バーンスティン訳書1977=1985:72

儀礼がただのルーティンにとどまるのか、それとも若者によって創られるものに変化するのか。このような創造的な学校儀礼、浅野誠氏のことばを借りれば「行事はつくるものである」(浅野1985:208-215)という発想が現代の学校に強く求められるようになってきていることを意味しているようにみえる。



 参考文献

  • 浅野誠(1985)『子どもの発達と生活指導の教育内容論』明治図書。
  • バーンスティン.B(1971=1981)〔萩原元昭編訳〕『言語社会化論』明治図書。
  • バーンスティン.B(1977=1985)〔萩原元昭編訳〕『教育伝達の社会学──開かれた学校とは』明治図書。
  • Bernstein.B(1996=2011)Pedagogy, Symbolic Control and Identity: Theory, Research, Critique. Rowman & Littlefield.(久冨善之・長谷川裕・山崎鎮親・小玉重夫・小澤浩明訳『〈教育〉の社会学理論──象徴統制,〈教育〉の言説,アイデンティティ』法政大学出版局、新装版)
  • 牧野幸(2008)「子ども主役の卒業式に」『生活指導』明治図書、2008年 3 月号。
  • 新村出編(2018)『広辞苑』第七版、岩波書店。


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2019年11月01日 記